椿姫の1幕のあの有名な大変なアリアの冒頭のレチタティーボ

È strano!… è strano!…
in core scolpiti ho quegli accenti!
Saria per me sventura un serio amore?
Che risolvi, o turbata anima mia?
Null’uomo ancora t’accendeva…
O gioia ch’io non conobbi, esser amata amando!
E sdegnarla poss’io

これね、楽譜通り歌っているはずなのに

違う、違う、て言われた事がります

イタリア語を流暢に話す人から聞くと

イントネーションが違う

楽譜通り歌っていてもイントネーションが違うと、リズムも違ってるように聞こえてしまう

これは、イタリア語ペラペラの、外国人の友達にも聞いてもらった時の、アドバイスでもそうでした

声とか、クオリティはとっても好きだよ、と言ってくれるけど

イタリア語のイントネーションで歌わないとダメだよ、と

遺言のようになった、師匠の最後の私へのポイントアドバイスは

言葉を勉強しなさいでした

自分でもなんか違うんだよね、と感じ出してました

自分で言葉が…、て

翻訳してあって、内容も凄く解ってるのだけど、自分で違うと、思っていました

言葉が解らないと、呼吸も本当の呼吸にならない

歌はお芝居です

その感情の呼吸があります

日本語オンリーしか話した事のない人の歌は

心には響いてこない

ですが、発声は確率されてないけれど、声が綺麗で

言葉が流暢な人の歌を聞いたときには、

何か、心に響くものがありました

この人は、歌手になろうと思えばなれるのにな、と思いましたが

なりませんでした

今は、全く歌っていないみたい

すっかり歌の世界にはいないようです

これは、私自身の事で、誰かの事ではないのですが

人前に立ちたい立ちたいという人は

目立ちたがり屋の、我の強い

歌の下手な人が出たがるのかな?なんて思います

本当に上手な人は、もうとっくに、本当の舞台で

仕事をしています

勿論、日本ではありません

ヨーロッパの王立歌劇場や、国立歌劇場で

ヨーロッパを中心に歌っておられる日本人歌手もおられます

私は、そのレベルで、その方向で勉強をしている者です

そこは間違えないで欲しいと思いますけれども

それでも、インターナショナルを意識して勉強した時間は

とても宝物のように大切に思っております

ヨーロッパ人歌手からも言われました

話せない言葉の歌は、私は歌いませんよと

その意味がとてもよくわかります

話せないは、歌えないに等しいのだと言うこと、とてもよく理解できます

よく考えたら、私は20代にそれを目指しました

しかし、いろんな観点から上手くいきませんでした

元々持っている性格や、いろんな事が影響していると思います

そういう仕事に向いた性格や、資質があると思います

でもずっと、なんとなく、海外を意識して凄してはいましたが

目の前の生活に追われる、自立しなくてはならないし、したかったですし

また自立していることが、楽しみでもありました

段々と、その事に一生懸命になって行ったので

なんとなく海外を意識したような事は、諦めてもおりましたが

41歳になった時に、人生のターニングポイントでした。

海外の有名な歌手としか契約をしない

そういう仕事をしている師匠が現れました

そういう人のそばにいると

インターナショナルを意識しないではいれないわけです

その頃から、また子供の頃の夢を思い出して

インターナショナルを意識し、そういう意志を持って勉強をしましたが

それでも、生活に追われる毎日、今さらながらの気持ちもあって

語学に、さほど身が入らない

でも、段々本格的に目覚めてきていました

声も段々と思い出すかのように蘇ってくると

言葉が…、となった訳です

そこで師匠は亡くなりました

言葉が、と本気で思って、言葉の勉強をしだしてからの声がまた違ってきている

呼吸もそれに従事します

仕事になる、ならないより

ずっとその方向を向いていよう

やれる事をやればいい

無理に舞台に立つ必要もない、日本で舞台に立つ事は

物理的なもなが、なんぼほど必要か

一般の人には理解できない、桁外れなものです

私が時々開く、あの小さなコンサートでさえ

大変な金額です

バイタリティーや、いろんな事が伴っていないと歌手にはなれないのです

ですが、音楽を通して、自分の魂を向上させています

それが、人生の目的です

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